« 沖縄・神界のフィールドワーク プロローグ(放送篇) | トップページ | こんばんは »

堀川高校ってとこへ行ってみた

「堀川の奇跡」と謳われた京都市立堀川高校へ行った。公立高校にあって抜群の京大への進学率を誇る(?)高校だ。だからと言って、それを売りにしているわけでもなさそうだけれど。

教師人たちの意識改革で生じた奇跡といわれ、公立でも此処まで取り組めるのだということが大分評価されているらしい。

説明に当たった教頭も熱くその取り組みを語ったが、わたしには少しばかりしらけて聞こえた。

だって・・・、生徒たちの自主性や自由度を保障しているというけれど、話しを聞く限りにおいて、生徒たちはほとんど教師陣の手の内にある感じがしたからだ。

まあ、生徒たちがそこで楽しく頑張っているのだから、何も水を注すつもりはないけれど、本当の学問の自由とか生徒の自主性とか、自治とかそういったものは堀川高校が説明するほど、スマートなものではない筈だ。

自由とか自主独立とかは、環境が整えられた中で獲得されるものでは決して無いだろう。手厚い環境整備、やる気のある教師陣、潤沢な助成金を得ての取り組みで、何らかの成果を挙げられない方がおかしいだろう。

教育行政の先陣をきるかたちでうまれたこのスーパーサイエンススクール、堀川高校は本当に公教育の未来像なのだとは思えなかった。

お国が補償する教育とは「国民」の育成を旨としている。だが、お国の教育と個の学びとは全く異なるものだ。

子どもたちは気づいていないのだろうか?大人たちがおいしいことを言ってくるのには、わけがあるんだよ・・・ってことを。

わたしは「学び」とは自主自学に尽きると思っている。高校生くらいにもなれば、それくらいの勇気があってもよい。

もしわたしが万が一、気の迷いで堀川高校に入学していたら、たぶんそのうちに「不登校」に成ると思うな。「ほって置いてくれ!!わたしは勝手にやる」ってね。

それに、一番多感なこの時期に、やることばかりが多い現実だけでなく、読書に耽溺したり、映画を徹底的に見たりといった「青春時代」を送るって言うのもあってもよいと思うのだけれど・・・。

堀川高校には、どうも学内でぼんやりしている大切な暇はなさそうだ。

なにも、ひとりが広い実験室を与えられて、自分のやりたいことにとりくめたり、あれやこれや何事かに取り組むことだけが自主的な学びだっていうのって、やっぱり違うと思うな。

もっとも、そういうのがいやだって言う子は、堀川高校へはいってなどいないだろうけれど。

|

« 沖縄・神界のフィールドワーク プロローグ(放送篇) | トップページ | こんばんは »

「教育」カテゴリの記事

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。
堀川高校6期生、卒業生です。
言いたいことはわかるのですが・・

実際、学校という組織が厭でとかいろいろ考えて不登校気味な子や、授業中勉強なんかせずにずっと本読んでいたり寝ていたりする子、音楽ばっかり聴いている子、イベントが大好きですぐ、遊ぼうぜ!って企画しだす子、たくさんいました。
ほんとにたくさん。

教師においしいことをいわれたこともなければ、むしろ不満や意見や悩みをぶつけてばかりいたとさえ思うくらいです。
みんな個性的でたくさん考えていて、教師が動かせるような、そんなやりやすい生徒たちじゃあなかったはずです。

「ほっといてくれ!私は勝手にやる!」
皮肉ですがそんな生徒ばかりでしたよ。
勉強も、勝手にやるんです。
好きだから、あるいは将来のために。
みんな尊敬できる友達ばかりです。

ちなみに私は堀川で成績落ちこぼれでした。笑
ですが当たり前に先生方はかわいがって下さいましたし、馬鹿やる友達、勉強教えてくれる友達といろんな面の成長が出来た高校時代だったと思っています。


いかがでしょう?
もちろんこれは私から見た堀川高校です。
ですが、先入観や憶測はなかったでしょうか。

公教育の未来像だとか奇跡だとか、見える結果に対して周囲が勝手に言っていることはどうでもいいんです。
ただしその言葉に引きずられて、私たちが操り人形だった、というように取れる憶測は余り気持ちの良いものではなかったです。

投稿: 卒業生 | 2008年7月26日 (土) 16時46分

卒業生さん、アクセス有難うございました。

外側から見えたこと、内側から見えること、それぞれに感じ方は異なることは仕方のないことです。

わたしの体験はホンの一日でした。それで全てを語れるなどとはもちろん思ってはいません。
そしてまた、沢山予算のついたパイロット校としての堀川高校の取り組みに対して、多分バイアスがかかった見方をしていたかもしれません。

ところで、わたしはかつて20年間ほど民間教育運動に参加していました。「お母さん達の教育運動」です。
子どもを育てる親として、そのころの「学校」と言われることろの(具体的には小学校でしたが)陳腐さに、親として納得できなかったのです。

そこで、お母さん達のグループで勝手に子ども達にとって楽しいことを(学びも遊びも)地域内で作り出してきました。

普通の学校が子ども達にとって普通に存在していれば、そのようなことに取り組む必要はなかったのだと思っています。当時の「学校」と言う所に任せることに対して、親としてお任せするわけにはいかないことになっていました。でも、今はやりのモンスターペアレントなどではありませんので、誤解しないでくださいね。

つまり、子どもの学びを公教育としてどう保証するのかと言うことに対して、学校と言う所があまりにも無責任なような気がしていたのです。

子ども達の学びをどのように保証するか、ということを考ることはとても大切なことだと今でも思っています。

ところで、堀川高校が予算の面や教員の意識の面で整えられていることは、否定できないでしょう。そうした取り組みなのでしょうから。

そのような環境の中で、子ども達の可能性が伸ばされることは、とてもよいことだと思いますし、その意味では貴重な取り組みだとも思います。

実際にわたしの子ども達も、中学・高校時代は、堀川高校のように自由度のたかい自由教育の中で学びを保証され、見事に社会に巣立っていきました。自由度が高いということはつまり自立度を求められるのですけれど。

その中・高一環の私立校は、堀川高校のような潤沢な予算を持った学校ではありませんでしたが、子ども達の自由と自立の精神は、おそらくあの中高一環の6年間のなかで培われ、子ども達自身によって勝ち取られたものだと思っています。

でも、矛盾したことを言うようですが、そうしたことはほんとは普通にどの学校でも産み出されてしかるべきことなのではないかとも思うのです。

予算があって、人材が整えられた環境でしか産み出すことが出来ないような教育だとしたら、それはそれほど大したことではないことなのではないかと思います。

公教育のなかで予算のない地域の小学校やそのほかの学校での苦しい取り組みもあるなかで、ある特別な条件の中での取り組みがある種の成果を産み出すことは期待できてあたりまえのことでしょう。

あなたはかなり意識の高い、(あなたの体験によれば、堀川高校の皆さんの多くの場合がそのようなようですね)意見をお持ちのようで、少しだけホッとしました。

体験記を読んでいただいた結果、気分を害されたようですが、わたしが感じたことは確実にわたしの体験として、残っているのです。

わたしには教員側の「仕掛け」の力がどうしても強く感じられたことは確かでした。
でも、教員にもし価値があるとするならば、そうした「仕掛け」をどのように上手く作り出すのかということにあるのかもしれませんけれどね。

投稿: 天鈴花 | 2008年7月26日 (土) 18時55分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/154183/7913187

この記事へのトラックバック一覧です: 堀川高校ってとこへ行ってみた:

« 沖縄・神界のフィールドワーク プロローグ(放送篇) | トップページ | こんばんは »